複合時制の助動詞と過去分詞アレコレ

フランス語には直説法複合過去に代表される複合時制 temps composé があって、これは対応する単純時制 temps simple に置かれた助動詞 auxiliaire と過去分詞 participe passé で表される。助動詞は全ての他動詞と多くの自動詞では avoir が用いられ、一部の自動詞と全ての代名動詞には être が用いられる、ということになっている。助動詞に être をとる自動詞は、一般に「移動や状態変化を表す、完了動詞」などと説明されるが、数は限られていて、実際的には丸暗記した方が早い。そして、さらには助動詞に être をとるか avoir をとるかで意味が変わってきたりする動詞まである。なんでこんなことになったのか。

助動詞に être をとる動詞の説明をする前に、まず avoir + p.p. の形をとる複合時制がどうして生まれたかを簡単に。ラテン語にはこれに対応する形態がない。つまり、助動詞+過去分詞という迂言的 périphrastique な形を使わず、例えばフランス語の j’aime に相当する amo に対して、j’ai aimé に相当する形は amavi となる。この完了形 amavi は古典期において、フランス語の複合過去よろしく、「完了」というよりは単純に「過去」を表すことが多かったらしい。一方で avoir + p.p. にあたる形の p.p. + habere もまた古典語において既に使われてはいた。ただし、この場合、p.p. は habere の直目たる対格名詞を形容している。たとえば Caesar urbem occupatam habet. 「カエサルは占領された町を所有している」という文のように(この文は Wartburg, p. 49 による)。しかし、実際にはこの構文が完了に近い意味をもったこともあったとされる。プラウトゥスには Liberos parentibus sublectos habebis「お前は両親から奪い取られた子たちを持つだろう=お前は子たちを両親から奪い取ってしまうだろう」という文が見られる。

したがって、過去分詞は本来、直目にあたる対格名詞と常に性数一致していた。しかし、この構文の habere から「所有」の意味が失われ、構文全体が「完了」を表す強調形として用いられるようになるにつれ、habere は単に人称を表すマーカーになり、語順も次第に現在の形に固定され、動詞の主要部として意識されるようになった過去分詞の性数一致は任意のものになっていった。

ところで、現代フランス語においても、直接目的語が過去分詞に先行する場合、過去分詞は直目に性数一致するという規則が残されている。例えば、 j’ai écrit une lettre : une lettre que j’ai écrite のように。この規則の始まりは16世紀の詩人 Marot に遡る。彼は、過去分詞が性数一致を起こしていた古い用法(il a l’espée prise)、および当時のイタリア語を範にとって(Dio noi a fatti)、ほぼ現在と同様の規則を推奨した。当時から口語ではほとんど守られていなかったようだけれど、Vaugelas などの後押しもあり、書き言葉においては現代まで「人工的」だと感じられながらも残ることとなった。

さて、次に être + p.p. の形式だけども、これは一部の自動詞の複合時制の形であると共に、全ての他動詞の受動態の形でもある。ラテン語においては、フランス語の je suis aimé に対応する amor のように活用語尾のみで受動を表した。それでは、複合過去に対応する形態がなかったように、受動態にも迂言的な形がなかったかといえば、実は amatus sum という形があった。ただし、これはフランス語でいうところの j’ai été aimé、つまり受動態の「完了」を表していた。つまり、次のような関係になる:

現在: 完了
能動amo: amavi
受動amor: amatus sum
ところが、音韻変化によって、語末の -r が発音されなくなると、amo : amor の対立が崩れ、ここに amatus sum が入り込むことになる。そもそも、esse が現在形であったこともあり、amabilis sum のようなものと並行的に捉えられたようである。

ところでラテン語には deponentia(「形式受動態動詞」「能相欠如動詞」などと訳される)と言われる一群の動詞があった。これは、活用上は受動態しか持たない(上記の amor, amatus sum のように活用する)が、意味上は能動態となる動詞を意味する。形は受動で意味は能動という結びつきは、ラテン語話者の直観にも抵抗が感じられたのか、古典期以前より民衆の間では対応する能動態に置き換えられていたようだけども、先ほど述べた音韻変化も手伝って、この置き換えが後押しされ、ロマンス諸語において deponentia は消滅した。とはいっても、この場合は、もともと使われていなかった能動形への単なる置き換えであり、受動態完了形はそのまま残されている。例えば partior「私は分割する」から現在形 *partio (> je pars)、完了形 *parti(u)i (> je partis)、あるいは morior 「私は死ぬ」から現在形 *morio (> je meurs)、完了形 *morui (> je mourus)が作られ、本来の完了形であった partitus sum, mortuus sum は、単なる「過去」を表す完了形に代わって「完了」を受け持った avoir + p.p. と同じ時制を受け持つことになった。

しかし、deponentia 由来の動詞すべてが複合時制で助動詞に être をとるわけではない。例えば、imitor : imitatus sum は、現代フランス語で j’imite, j’ai imité となる。これは、deponentia がもはやなくなったロマンス語では他動詞の être + p.p. が受動態を表す形態になっていたことが大きな原因だろう。他動詞の複合時制は全て avoir + p.p. に置き換わった。一方で、もともと deponentia ではなかったのに、助動詞に être をとる動詞もまた存在する(aller, venir, etc.)。これは、avoir + p.p. の p.p. が本来、avoir の直接目的語にかかっていたものであるということもあり、直目を持てない自動詞は、être + p.p. との相性がよく、受動態と間違われることもないためこの形が生き残ったんでなかろうか。また、monter, sortir といった動詞は自動詞か他動詞かによって助動詞を使い分けることで、うまくこの対立を利用したんだろう。

最後に、助動詞として例外なく être をとるとされる代名動詞だけれど、実は中世、とくに地方においては être 程でないにしろ、助動詞に avoir をとった代名動詞の用例が多く見つかり、また口語においては今も観察されるらしい。つまり、助動詞に être のみを使うというのは一種の規範として整理されたものっぽいのだけれど(未確認)、それでも être が優位であったことにはいくつか理由があげられる。現代フランス語において、代名動詞は専ら他動詞の中動態的あるいは受動的な用法として使われるが、古フランス語においては、それに加えて、主語の行為に対する関与、関心の強さを表すために自動詞にも使われた。これは現代フランス語においても s’en aller, s’enfuir, se rire などにその名残が見える。これらの用法は古典語においても中・受動態や、ラテン語の deponentia が引き受けていた用法だった。受動的用法も含め、これらの意味を表すのに助動詞 être との相性がよかったと言えるんじゃなかろうか。結果的に、動作の結果が主語に及ぶか、直目に及ぶかによって、次のような助動詞の対応関係が成立する。je suis monté vs. je l’ai monté : je me suis levé vs. je l’ai levé.

Biblio.
Banniard, Du latin aux langues romanes, Arman Colin, pp. 59-62
Cerquilini, Merci Professeur !, Bayard, pp. 22-23
Chaurand, Histoire de la langue française, PUF, p. 36
Grevisse, Le bon usage, de Boeck Duculot, §§. 810 sqq., 943
Wartburg, 『フランス語の進化と構造』田島他訳, 白水社, pp. 49, 112
島岡, 『フランス語の歴史』, 大学書林, pp. 88-90